緘黙の言霊

緘黙の言霊

メカ音痴でコミュ症や社交不安や緘黙症が疑われている筆者が世の中へアウトプットするためのブログ

【当事者だからこそ、語れることがあると思う】今、思い返すと緘黙と発達障害があったと思う、それによる悲劇、思い返せば、中学からイジメられてた

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イラストacから

 

当事者が語らないと全てが闇に消えていく?

snsなどでも、緘黙・引きこもり、などの方達にアドバイスしている方は沢山いると感じる、それらの方の多くが善意から、アドバイスしているとは思う。

 

このような現代社会において、上手く自分の意見が言えない僕のような人間の当事者だからこそ、語るべきことがあるという気がしている。

これはある種の使命なのかもしれない!!

 

しかし、語れない、なぜかわからないけれど、恐らく喋るのが苦手なせいもある、だからこそ、僕はブログをしているのかもしれない

かもしれないと付けるのは、自分でも目的がわからないせいかもしれない

 

自分は、人にアドバイス出来る立場ではなくアドバイスされる存在だと思う、しかし、アドバイスされると言う事は、人から教えを乞う存在という事になるのではないだろうか?

 そんな状態では自尊心は低下していくような気がする。

 

 

反面、人にアドバイスをしたり、ボランティアなどの活動が出来たらどうでしょうか?

自分は人にいい影響を与え、社会の役に立つような存在と自尊心はうなぎのぼりになっていくのではないでしょうか?

 

この法則により、アドバイスする方に悪気は無くてもアドバイスされる側は自尊心の低下を招いてしまうことがあると思う。

しかし、アドバイスする人や、ボランティアしてくださる人の力で日本は助かってると思う。

本当に良い人なら、こんなこと言っても怒る訳ないじゃないか、そう思ってる

 

正直言うと僕は今まで、アドバイス、ボランティア、それらの善業を行う人がなぜ沢山いるのか?それを不思議に思っていた。

 

 

ボランティアする人は、かつて自分が通っている就労支援にも存在していたというせいもあると思います。

 

 今になって振り返ると結局は自分の為なんではないか?と想像しているのです。人によっては違うとは思うけど、人の役に立つことが安心感に繋がる、という噂を聞いたこともある。

 

僕も誰かの役に立ちたいと思ってブログをやっているのかもしれない、そうすることで、自分には存在価値があると思えるからだと思う。

突き詰めると人の為と言われるような事も実は、行動の元は自分の為なのではないでしょうか?

 

なので、アドバイスをして、参考にしなかったから、不機嫌になるとか、ボランティアしたのに感謝されなかったから、不機嫌になるとか、そんな現象も起こり得ると思っている!!

 

アドバイスされる側、ボランティアされる側も、ありがたい時もあれば、プレッシャーに思うこともあると思う。

 

なので、当事者が本当はどんな心理なのか、わからない人にもわかってもらえたら、支援されやすくなると思うから、自分にはその力はないかもしれないが、アウトプットの挑戦はし続けようと思っている。

なので、僕の過去も未来の緘黙などへの理解へ繋がる可能性があると思ってる。

あえて、過去について語ってみようと思いました。

 本当に優しい人はこんな事でも怒りはしない、僕は、本当に優しい人と出会って救われたいと思っているのです。

その為には自分を説明できなければ始まらないのではないだろうか?

 

中学時代の僕の栄光の歴史

まずは、時代を細分化して語る事が分かりやすさに繋がると思いました

今回は中学の奇跡の説明をしようと思います。

 

中学時代クラスのグループの輪に入れなかった

 アドバイスされるためには自分の事を知ってもらう為に自分の情報を提供しなければいけないと思っている。

僕の挫折は小学校高学年の時に担任に暗いと言われて、社交不安・緘黙の症状が発症してからだと思う。

中学に行って、なんとか人と話そうとしていた時期があったが、不安感が拭えず、人に話しかけようとすると挙動不審になってしまうためにまともに話しかけることが出来ずに過ごしていました。 

なのでグループに属することが出来なかったように思う。

ある先生にこんな事を言われたのを覚えている

「学校は勉強するだけの所じゃないんだけどな」

当時の僕はそれを言われて、ひょっとして頭が良いと思われてるんじゃないだろうか?などの捉え方をしていた

今振り返ると、人との付き合い方を学ぶ所でもあるという意味だったのだろう。

大人は子供に分かるように説明できないところがあるように思う

悲劇、仲間外れの、目立ちたがりやに目を付けられる

目立ちたがりやグループに居たある男がそのグループから仲間外れにされ孤立してしまったのですが、その人が、元々孤立していた僕に目をつけてきたのです。

 

その結果、お金を取られたり、送り迎えさせられたり、地獄のような日々を送る事になってしまったのです。

 

その前まではなんとか人と話そうと思っていたけど、もう、友達なんて居ない方がいいんじゃないかとすら思うようになってしまいました。

 

電柱に頭がぶつけられて、歯が欠けたり、目を蹴られて病院行ったりした事もあります。

 

その結果、より一層無気力になってしまった。

当時、新聞配達していてその金も取られました。

それだかけでは足りず親の財布からも取らざるおえませんでした。

 

その当時のエピソードの一つに、その人と二人乗りをしていて、僕が運転をして、次右、次左、という指示を間違えてボコボコにされた事が何度かあったと思う。

その時に「お前は障害者じゃないんだよな?だったらちゃんとしろよ」と言われたような記憶がある

今振り返ると、僕は完全なる健常者ではなかったせいで、こんな地獄のような中学時代を過ごしたのではないか?ということだった

まとめ

自分で振り返っても、カッコ悪い過去だと思う。

しかし、後で振り返るから分かる事もあると思う。

その当時もそれからも、周りの目を気にして生きていたけど、静かな人間は支援の対象になりずらいのではないかという、今までと同じ感想に辿り着く。

親も自分の子供が虐められっこだとか、大人しいとかが嫌に思うし、認めたく無いんだと思う。

先生などの大人も子供の気持ちを理解出来ないという事もあると思うし、現代はスクールカウンセラーがいるとかテレビで聞いた事があるけど、昔はいなかったし、発達障害という概念もないから、虐められっこなどは、虐められる方にも責任があるのではないか?という考えもあったと思う