緘黙の言霊

緘黙の言霊

メカ音痴でコミュ症や社交不安や緘黙症が疑われている筆者が世の中へアウトプットするためのブログ

虎高の修羅の道を歩む社交不安

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社交不安、コミュ障、緘黙、それらを抱えている人は孤独な道を歩まなければならいのだろうか?

 近況

 自分は最近完全に孤立化に拍車がかかっている。

障害枠で6.5時間働いているけれど、殆ど、喋ることがないし、仕事が立ち仕事で腰と足の裏が痛くなって、殆ど何も手につかない

 

社交不安は誤解されやすい

ある時、本を読んでいたら

社交不安の人は怒らないという文を読んだ。

それを読んでなんだか、違和感を感じた。

 

僕は「内心、常日頃、イライラしているけどな?

社交不安ではないのだろうか?」

と疑問に思ったが

それに対して、すぐ、自分の中で答えを出した。

 

イライラしてたとしても、社交不安だから人前で怒れないだけ という可能性があるのではないか?

 

常日頃思っていた。客観的に見えるその人と、内面にあるその人の思考、には差があるのではないか、まあ、当たり前の事かもしれないけど。

 

しかし、それは、診察などの間違えてはいけないような重要な場面でも起こり得ることなのではないだろうか?

 

 例えば、

緊張して話すことが出来ず、目を合わせないが本当は話したい

という状態を客観的に外から見て

自閉的で話す気がないと誤解される事もあると思う。

 

自分が、精神保健福祉センターなどで起きた状態が、まさにそんなような状況だった。

 

対面で、相談員の方と相談するという形式だったが、緊張や、頭が整理できず会話がままならなかったのだ。

話そうと思っても、何を話せばいいか分からないし、緊張もしてしまっていた。

 

それに対して、相談員の方は

「〇〇さんは、話したくないから、話さないのかと私は思っています」

と言ったことがあったのです。

その時、僕には、その発言の真意がわからなかった。

今、考えると、緘黙症とかではないと思う、というような意味合いもあったのだと思う。

当時の僕には、それを理解出来なかった。

 そうだよな、話そうと思えば話せるのに、なんで、こんなに話せないんだ、と自分を責めていた。

 

よく、精神の病気の方も、話せばスッキリする、ということを言っている人がいたが逆に話せないことにストレスが溜まってしまう状態だった。

 

インターネット上などの掲示板でそのような事を書き込めば、相談員の人はプロだから、その機会を利用しようと言われたが、僕には、そのプロにすら自分の悩みを上手く相談できずにいた。

また、相談員の方も僕の実態を理解出来ないでイライラするような感じの時もあった気がした。

 

なんでも、最初のハードルを越えなければ、スタートラインにすら立てないものなのかもしれない。

よく責めれる、ひきこもり、という方にも、恐怖や極度の話下手により、スタートラインにすら立てず、上手く向上心を満たしていくような成長の階段が稼働していない人が多いのではないかと思った。

もちろん、自分の事でもあります。

 

外から見たら、甘え、とか、終わらない思春期とか、結論づけられるかもしれない。

話したくないんだろ

働きたくないんだろ。

それらは、だれでも、出来れば働きたくない、話したくない、と思うかもしれないけれど、ひきこもり、になるような人で実際は金も欲しいと思うし、人と話したいとも思うけれど、その欲求を満たすことも、したくても出来ない状態であって、それが楽かと言えばそうとも言えない、要するに望んでそうなってるのではないのです。

 

しかし、そんなものは、理解しめしてくれないのが社会人の大半。

 

もはや、修羅の弧高の道を歩む事になろう。なんだか、カッコいい気分になってきました、明日の修羅の一般就労やってきます🐯